久留米と「第九」

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2024年は、ベートーヴェンの[交響曲第9番ニ短調作品125](通称「第九」)が初演から200周年を迎えたメモリアルイヤーでした。日本においては年末の風物詩として親しまれている「第九」ですが、久留米がもつ「第九」との深いつながりは意外にもあまり知られていません。このコラムでは、「第九」と久留米との縁を紹介いたします。

久留米俘虜収容所

大正時代、久留米には1,300名を超えるドイツ兵俘虜(*1)が生活していました。彼らは1914年に勃発した第一次世界大戦において、日本とイギリスの連合軍によるドイツ帝国の拠点、青島(チンタオ)要塞の攻防戦で捕虜となった兵士たちでした。

青島攻略戦における主力部隊・久留米第十八師団の駐屯地であった久留米では、日本における捕虜収容所設置の候補地として早くからその準備が行われていました。大正3(1914)年10月9日に最初となる55名のドイツ兵(*2)が到着し、京町の梅林寺、日吉町の大谷派久留米教務所に分散収容されました。捕虜兵の増員に伴い、一時は4ヶ所におかれた収容所(*3)は、翌年の6月には国分村の衛戍(えいじゅ)病院(*4)付近に新設された「久留米俘虜収容所」に統合されます。国分村の久留米俘虜収容所には、熊本や福岡からも収容者が移送され、最も多い時には1,319名が生活していました。

久留米俘虜収容所における彼らドイツ兵の収容所生活は、第一次世界大戦が終結し、ヴェルサイユ講和条約締結を経て解放される1920年1月26日までの、およそ5年3ヶ月に及びました。

収容所生活におけるさまざまな配慮

久留米は、青島攻略戦の主力部隊「独立第十八師団」の中心である久留米第十八師団の本拠地です。そのような地で収容所生活を送ることになったドイツ兵、そして彼らを迎える市民の心情は、ともに複雑で緊張したものであったと想像されます。地域住民に対しては、ドイツ兵を迎えるにあたって「(捕虜兵は)敵でも見世物でもない」と人道的な対応への喚起がなされ、また収容所長交代等による時期的な管理体制に違いはあったものの(*5)、ドイツ兵の収容所生活においてはハーグ条約に定められた内容が尊重されたことも事実です。

このような収容所生活における精神的・身体的な健康面への配慮として、運動や演劇、音楽、美術、工芸、そして収容所外への遠足など、様々な活動が推進されました。久留米俘虜収容所内部には、手狭ながらも(*6)音楽堂や運動用の広場も設けられ、美術工芸展や演劇・演奏会、スポーツ大会が催されました。なかでも音楽活動は活発に行われ、収容所内での演奏会は通算200回を越えたといいます。

戦争が終結し条約締結によってドイツ兵たちの解放が確定して以降には、彼らと久留米市民との交流が深まり(*7)、互いに好意的な感情をもって接したことがうかがえます。

久留米市民と「第九」

久留米俘虜収容所では、シンフォニー・オーケストラ、収容所楽団、室内楽団の三つの楽団が結成されていました。楽器や楽譜の調達や団員の確保などに苦労しながらも、交響曲から民謡まで様々な曲目が演奏されたといいます。管弦楽曲をはじめとし、200回以上にのぼる演奏会のなかではベートーヴェンやワーグナー、グリーグ、メンデルスゾーン、R.シュトラウスなど、ドイツが誇る作曲家の作品の人気が高く、好んで演奏されていたようです。

捕虜兵たちの帰国も間近となった1919年12月3日、久留米高等女学校(*8)の講堂で、久留米俘虜収容所のドイツ兵たちと日本人の交歓音楽会が開かれました。女学生による薙刀術が披露されたあと、収容所楽団によるモーツァルトやワーグナーなどの楽曲に続き、ゲオルク・フォン・ヘルトリンクとオットー・レーマンの指揮でベートーヴェンの「第九」第二・第三楽章が演奏されました。部分的ではあるにせよ、これは日本の聴衆が「第九」に接した最初の機会でした(*9)。

久留米高等女学校の演奏会では「歓喜の歌」を歌う第四楽章の演奏はなかったものの、この2日後の12月5日、収容所内において女声パートを除いた合唱付きの全楽章が演奏されています。収容所からの解放を間近に控えたこのときのドイツ兵たちの心情は、「歓喜の歌」そのものだったかもしれません。

「久留米第九」が演奏する「第九」[交響曲第9番 (合唱付き)]を、100年前の久留米市民とドイツ兵に思いを馳せながらお楽しみください。

[脚注]
(*1)現代においては「捕虜」の字を用いることが多いため、固有名詞である「久留米俘虜収容所」以外は「捕虜」に統一した
(*2)厳密にはポーランド系など多国籍の兵も少数存在した
(*3)捕虜兵の増加に伴い、篠山町の料亭香霞園と藤光町の高良台演習廠舎が追加された
(*4)現在の久留米大学医療センター
(*5)歴代所長は順に、樫村弘道少佐(1914年10月6日~1915年5月25日)、真崎甚三郎中佐(1915年5月25日~1916年11月15日)、林銑十郎中佐(1916年11月15日~1918年7月24日)、高島巳作中佐(1918年7月24日~同年9月7日)、渡辺保治大佐(1918年9月7日~1920年3月12日)。※括弧内は任期を示す
(*6)約3万1千平方メートルの敷地の中央に広場や洗面・洗濯場、音楽堂が配され、その周囲に将校舎2棟、下士卒舎15棟のほか炊事場や事務所、テニスコートがおかれていた。また1918(大正7)年10月には運動場が拡充された
(*7)後述の交歓音楽会の他、収容所内での美術工芸品の展示会や劇場・恵比寿座での「独逸人演芸会」などの催しにおいて、在地の有識者を中心に市民の一部が接した
(*8)現在の福岡県立明善高等学校
(*9)久留米俘虜収容所での「第九」演奏の約1年半前の1918年6月1日、徳島県鳴門市の坂東俘虜収容所で「第九」の全楽章演奏が行われており、この坂東俘虜収容所における演奏は「第九」のアジア初演として知られている。このときの聴衆は関係者に限られていたことから、久留米高等女学校で行われたドイツ兵による演奏は、日本人の聴衆を対象とした「第九」の初演とされる

[参考]
大庭卓也・小澤太郎編 『熊本・久留米俘虜収容所(1914-1920)の風景ーあるドイツ将校の写真帖でたどる』花書院,2024.3
福岡大学研究推進部 『もうひとつの俘虜収容所 : 久留米とドイツ兵 1914-1920(近代地域社会史研究)』福岡大学研究部論集,2012.2
久留米市HP「ドイツさんと久留米」(久留米俘虜収容所のエピソード)

写真提供:久留米市教育委員会

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