久留米と「第九」
relation
ことし、初演から200周年を迎えたベートーヴェンの[交響曲第9番ニ短調作品125](通称「第九」)と久留米との、深いつながりを示すエピソードをご紹介します。
1914年に勃発した第一次世界大戦において、日本とイギリスの連合軍はドイツ帝国の拠点、青島(チンタオ)要塞戦を攻略し、それによって4,500名を超えるドイツ兵が捕虜として日本各地の収容所に移送されることとなりました。
久留米においては、1914年10月9日のドイツ兵到着以降、京町の梅林寺、日吉町の大谷派久留米教務所をはじめ4か所に収容所が開かれました。翌年、捕虜兵の増員に伴い、国分村の衛戍(えいじゅ)病院(*1)付近に「久留米俘虜収容所(*2)」が新設されました。
熊本や福岡からの収容者が移送され、最も多い時には1,300名ほどのドイツ兵(*3)が久留米俘虜収容所で生活していました。
彼らは第一次世界大戦終結後、ヴェルサイユ講和条約締結を経て収容所生活から解放される1920年1月26日まで5年3ヶ月ほどを、久留米俘虜収容所で過ごしました。
久留米は青島攻略戦の主要部隊である久留米第十八師団をもつ「軍都」でした。ドイツ兵、市民双方が複雑な心情と緊張を抱える中、ドイツ兵たちの収容所生活がはじまったことが想像できます。収容所長交代等による時期的な管理体制に違いはあったものの、ドイツ兵を迎えるにあたっては陸軍省から地域住民に対し「(捕虜兵は)敵でも見世物でもない」と人道的な対応への喚起がなされるなど、ハーグ条約に定められた内容が尊重されたことも事実です。
このような収容所生活におけるストレスへの配慮として、収容所内部でのスポーツ活動や演奏会の開催、収容所外への遠足などといった活動が推進され、なかでも音楽活動は活発に行われました。とくに戦争が終わり、条約締結によりドイツ兵たちの解放が確定したあとは、彼らと市民との交流が深まっていったといいます。
音楽活動面では楽器の調達や団員の確保などに苦労しながらも、久留米俘虜収容所では3つの楽団が編成され、交響曲から民謡まで様々な曲目が演奏されたといいます。管弦楽曲をはじめとし、収容所での演奏会は200回以上にのぼり、なかでもベートーヴェンやワーグナー、グリーグ、メンデルスゾーン、R.シュトラウスなど、ドイツが誇る作曲家の作品の人気が高かったようです。
彼らの帰国も間近となった1919年12月3日、久留米高等女学校(*4)の講堂で久留米俘虜収容所のドイツ兵たちによる演奏会が開かれました。学生による薙刀の見学後、モーツァルトやワーグナーなどの楽曲が収容所楽団によって演奏され、ゲオルク・フォン・ヘルトリンクとオットー・レーマン指揮によるベートーヴェンの「第九」第二・第三楽章が演奏されました。
久留米俘虜収容所での「第九」演奏の約1年半前、徳島県鳴門市の坂東俘虜収容所で1918年6月1日の全楽章演奏が行われており、これが「第九」のアジア初演として知られていますが、このときの聴衆は関係者のみだったため、久留米高等女学校で行われたドイツ兵による演奏は、日本人の聴衆を対象とした「第九」の初演といわれています。
久留米高等女学校の演奏会では「歓喜の歌」を歌う第四楽章の演奏はなかったものの、この2日後の12月5日、収容所内において女声パートを除いた合唱付きの全楽章が演奏されています。収容所からの解放を間近に控えたこのときのドイツ兵たちの心情は、「歓喜の歌」そのものだったかもしれません。
「久留米第九」が演奏する「第九」[交響曲第9番 (合唱付き)]を、100年前の久留米市民とドイツ兵に思いを馳せながらお楽しみください。
(*1)現在の久留米大学医療センター
(*2)現代においては「捕虜」の字を用いることが多いため、固有名詞である「久留米俘虜収容所」以外は「捕虜」に統一した
(*3)厳密にはポーランド系など多国籍の兵も少数存在した
(*4)現在の福岡県立明善高等学校
写真提供:久留米市教育委員会